今年は、子どもが車や園バスに置き去りにされて亡くなったり、マンションのビルから転落して亡くなる事件・事故が続き、心に暗い影を落としました。
自宅でのケース、園でのケースとそれぞれですが、大人の”うっかり”や”まさか”の隙間で命を落としていることが多く、保育者という尊い命を預かる仕事をしている者として、決してこうした事故は他人事ではなく、危険はいつもすぐ隣にあるのだということを思い知らされます。
改めて思うのは、文明がどんなに進化しても、幼い子どもたちが常に思わぬ危険と隣り合わせであることは変わらないのだなということです。
古代、生まれた赤ん坊が無事に成人するということは、それだけで奇跡のようなものだったようです。
今では薬で治せる感染症や種々の病気が常に子どもたちの命をねらい、また自然界のさまざまな予測不能な事象により、あっさりと命を落としました。
古代、生まれた赤ん坊が無事に成人するということは、それだけで奇跡のようなものだったようです。
今では薬で治せる感染症や種々の病気が常に子どもたちの命をねらい、また自然界のさまざまな予測不能な事象により、あっさりと命を落としました。
医療が進化した現代では、病気で命を落とす子どもの数は昔に比べると格段に減りましたし、文明が進化していくことで、様々な分野においてセーフティーネットが張られるようになり、そうした危険が遠のいているように感じてしまいますが、それでも小さな子どもの子育ては相変わらず「ヒヤリ」と「ハッと」させられることの連続で、大人には予測のつかない動きをするものです。
昔は「川で遊ぶとカッパに足を引っ張られるから気をつけろ」と大人たちは子どもに繰り返し言い聞かせましたが、現代のカッパはマンションのベランダから、子どもたちを黄泉の世界へ誘うのかもしれません。
心配だからと、小さな子どもを檻に入れて育てておくことはできません。年齢と発達に応じて、行動の自由とそれに伴う危険回避を少しずつ経験から学び取っていく必要も、健やかな成長には欠かせません。
そして小さな子どもたちには、そうした経験を積み重ねていくことに寄り添う大人の目や手が欠かせません。それが「子育て」であり、「保育」です。
心配だからと、小さな子どもを檻に入れて育てておくことはできません。年齢と発達に応じて、行動の自由とそれに伴う危険回避を少しずつ経験から学び取っていく必要も、健やかな成長には欠かせません。
そして小さな子どもたちには、そうした経験を積み重ねていくことに寄り添う大人の目や手が欠かせません。それが「子育て」であり、「保育」です。
現代生活においての子どもの命を脅かす危険や思わぬ落とし穴はどこにあるのか、大人たちは改めて気を配る必要があります。現代社会は、ひと昔前の暮らしに比べて、ずっと複雑化し、生活形態も多種多様になっており、大人たち自身が想像を超えるほどのスピードで進んでいく社会や生活のこれらの変化が、小さな子どもの成長していく環境にふさわしいかどうかなど、何も考察されないままにここまで進んできてしまっているのです。
子どもの生命を守る最後の砦が、安全装置やアラームに頼るようでは、子どもたちにとって心もとなく、人間への根本的な信頼感は培えないでしょう。
ハード面での安全対策ももちろん欠かせませんが、ソフト面からの安全対策も必要です。親や保育者が疲れ切っていたり、ワンオペの過重な暮らしに疲弊していたり、常に手元のスマホに気を取られているようであれば、「うっかり」や「まさか」のケースは否が応でも増えていくからです。
まだ星の階段を降りて「向こう側の世界」からやってきたばかりの子どもたちは、地上で生きる大人たちがしっかりと見守っていなければ、あっさりと「向こう側の世界」に帰ってしまう、まだ片足を向こう側に突っ込んでいるような存在なのです。
だからこそ、幼い子どもたちに、私たちは天使のような純朴さを感じるのです。
だからこそ、幼い子どもたちに、私たちは天使のような純朴さを感じるのです。
子どもたちがしっかりと、この地上に自分の足で降り立ち、歩いて行けるようになるまで、みんなで見守っていきましょう。親や保育者だけではなく、みんなで。
今年、星々の世界に帰ってしまった子どもたちと、その親御さんたちの計り知れぬ痛みに思いを寄せながら、年の瀬を迎えています。
(園長 虹乃美稀子)
次回は12月23日新月の更新です。