小さな声が聞こえるところ138「不適切なドラマを見ながら思い出したこと」

 今放送中の宮藤官九郎脚本のドラマ「不適切にもほどがある」を見ています。1986年と2024年を阿部サダヲ演じる中学教師が行き来しながら、この40年近い間に変容した社会のコンプライアンスへの意識と、それに伴うコミュニケーションへの感性や社会意識の変化を炙り出しています。
デリケートなテーマを扱っているだけに賛否両論ありますが、宮城出身のクドカンの作品も音楽活動も、私は理屈を超えた人間愛が感じられて好きです。今回のドラマも家族や園のスタッフと、考察と感想をシェアして楽しんでいます。(過激さと下品さもクドカンらしさなので初めて見る方はご承知おきください。)

さて、第5回では主人公の市郎(阿部サダヲ)は、自分が95年1月の阪神大震災で娘のじゅん子とともに命を落としていたことを2024年の世界で知ります。思いがけない展開を追いかけながら、私もまた29年前の神戸の記憶が一気にフラッシュバックしました。

その年度、私は保母1年目の新人でした。
そして1月14~16日の連休に(当時はまだ15日が成人式祝日)、「太陽の子保育園日記」を読んで感化されていた作家の灰谷健次郎氏が中心となって立ち上げた神戸の太陽の子保育園の見学に、夜行バスに乗って出かけました。
それ以外にも、学生時代のユースホステル旅で出会った旅仲間と会ったりして、3日間の楽しく充実した時間を過ごし、仙台に帰宅した翌朝、先ほどまでいた神戸の街で震災が起こったことを知りました。

私がバスで通った高速道路が陥落して、車が落下したくさんの人が亡くなっていました。お参りした神社の巨大なコンクリート製の鳥居も倒れています。地盤が地震を引き起こす時間の進みに比較したら、紙一重のところで命拾いしたのだと瞬時に悟りました。反対に紙一重で命を失った方も多いことでしょう。若かった私にそれはとても大きな衝撃でした。

寝ても覚めても、震災のことが気がかりでした。命拾いした者として、何事もなかったように日常を営むことが苛まれたのも若さゆえだったかもしれませんが、募金するだけでは私の心が収まりませんでした。

2月になっても震災現場の混乱は続いているとニュースが報じています。当時公立保育所にいた私は、思い切って所長に震災ボランティアとして現地に向かうことを願い出ました。私は公務員だったので、公僕として保育の業務に専念する義務がありました。その業務を免除して、ボランティアをさせてほしい、というわけです。職務として派遣される公務員はいても、自分から申し出て個人的な範疇で行かせてほしい、なんてあまりにも図々しいというのは自分でもわかっていたのですが、熱意が勝っていました。前例がないことが幸いしたのか、なぜかこの申し出は通ってしまい「職務専念免除」という辞令をもらって、私は10日間仕事を休んでひとり神戸へと向かいました。

  ところが今と違ってSNSもなければ、情報はテレビか新聞しかありません。私は何の当てもないまま、神戸へと向かいました。児童福祉部長からは直々に餞別金まで戴いてしまったものの、今夜の寝るところも定かでありません。だんだんプレッシャーが心の中で膨らんできます。「何の役にも立てなかったらどうしよう、、、」

動き始めていた阪神電車に乗り込み、ここまで、というところで線路上に下されると、全国各地から集まってきたボランティア志願の人たちとまずは被害の大きかった東灘区役所に向かいました。そこではボランティア受付がされており、私はその夜、持参した寝袋で区役所の廊下で皆と寝て、翌日から区内の被災マンションの集会所避難所へ派遣されました。

たった10日間のボランティア活動でしたが、その避難所で過ごした思い出は1ヶ月もいたような気持ちがしています。同世代の避難所の若い人たちとすぐに親しくなり、物資の配給や食事作りなどを手伝いました。今と違ってネットもない、携帯電話も多くの人がもっていない情報文明開化前夜の頃でした。今思うと大変なこともたくさん見聞きしたのだけれど、人と触れ合った温かさばかりが、記憶に残っています。少しでも役に立ちたくて向かったのだけれど、結果としては若者であった自分に多くの学びをいただいた体験でした。

今思えば、よくぞ職場も、同居していた両親も行かせてくれたものだと思います。
「コンプライアンス」なんて言葉も概念もまだ存在しなかった時代に、当てもないまま混沌とした被災現場に出かけていく二十歳そこそこの娘には見えていない危険も多かったはずですが、出会ったのは助け合う人間の温かさや向けられる感謝の念のありがたさばかりでした。それからしばらく、避難所の方々との交流は続きました。私が再訪したり、向こうが仙台にいらしたり。そしてこの経験は、それから16年後に遭遇する東日本大震災においても、心強くいられる力を与えてくれました。職場や家族がリスクを理由に認めてくれなかったら、得られない経験ばかりでした。

今は何においても「リスク回避」が先んじられます。どの分野においても仕事をする限り、それは当然追い求めていく必要がありますが、一方で世界のグローバル化が加速していくと、ひとりひとりの「個」の力は弱められていくように感じ、結果として「リスク回避」が「責任回避」にすり替わっていることもあるように見えます。若かった私にはわかりませんでしたが、当時の上司は私の若さも相まっての希望を、彼の職務上のリスクとともに引き受けてくれたのです。

リスクを回避することが、防ぐべき被害を回避しようとすることよりも、自分が取るべき責任を回避したいという意識が先立ってしまうと、知らず知らず社会は平べったく息苦しい世界に変容していくのではと思います。身体感覚より頭が先だつ「お利口さん」が増えて、誰が聞いてもツッコミどころのない聞こえのいい言葉ばかりを並べても、蓋を開けた本質の中身は空っぽ、ということが間々あります。

そんなことをよく感じる時代の波の中で、これからを生き抜く子どもたちに伝えたいことって何だろう。不適切なドラマを見ながら、自分の来し方の記憶にタイムスリップしながら、考えています。


文・虹乃美稀子

「小さな声が聞こえるところ」は新月・満月の更新です。
次回は3月10日新月の更新です。

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子どものスピリチュアリティの育て方 実践後編
「大人が子どもに関わるということ」

コミュニケーション実践編が始まります。全回録画視聴可能です。
第2回では、昔話や絵本などのファンタジーについてのお話も。
3/31までお申し込み可能です。

 

 

ABOUT

虹乃美稀子東仙台シュタイナー虹のこども園 園長
園長および幼稚園部担任他。
公立保育士として7年間保育所や児童相談所に勤務後、2000年に音楽発信ホーム「仙台ゆんた」を開き、アンプラグドのライブ企画など行う。
並行してシュタイナー幼児教育者養成コースに学び、南沢シュタイナー子ども園(東京都東久留米市)にて吉良創氏に師事。
08年仙台ゆんたに「虹のこども園」を開く。
民俗学とロックとにんじんを好む。1973年生まれ、射手座。

著書
『小さなおうちの12ヶ月』(河北新報出版センター)
『いちばん大事な「子育て」の順番』(青春出版社)