東北にも遅い春がやってきました。
私は歴史、特に民俗学が好きですが、長年通っている日本民俗舞踊研究所(世田谷)の仲間や民俗芸能研究者の方々と春休みの日曜日、山形へ大人の遠足に行ってきました。
寒河江市の里山の集落にある平塩熊野神社のお祭りへ。この地方に室町時代以前より伝わる舞楽のひとつ「平塩舞楽」を見に行ってきました。
ちなみに「平塩」という地名の語源は、古くから数カ所の「塩泉」が湧き出て内陸塩の産地であったことが由来です。今でも湧き出る泉の一つがあります。なめると、とてもしょっぱいです。
以前神社を訪ねたときは、人影もなく鬱蒼とした森に囲まれた静かな印象でした。
しかし、今日は春を告げる例大祭。社務所には紅白の幕が張られ、神楽殿には舞台が設られ、地元の人たちが三々五々に集まってきてにぎやかになりました。
今年ははうるう年にだけ演じられる「太平楽(たいへいらく)」の上演も。若者たちが甲冑をつけて、力強く足踏みしながら刀を振り上げて踊る勇壮な舞で、見応えがありました。舞楽独特の、アジアの大陸を思わせる笛や太鼓、かねの音色が、古典的な舞とともに見ているものの意識も浮遊させます。
民俗芸能の魅力はなんと言っても、ふだんは農家だったり勤め人だったり、消防団員だったりという一生活者の人々が、その暮らしの中でレベルの高い芸能を数百年にわたって維持してきたことです。
そしてその動機の中心が「人に見せるため」ではなく「土地の神様に捧げるため」という純粋性が、見るものの心にいつも新鮮な風を送ってきてくれます。
東北はこうした神楽(かぐら)や舞楽(ぶがく)が、山間の山村にまだ多く残っている民俗芸能の宝庫ですが、それでも令和の時代になり、地方は一層廃れていき少子化は進み、コロナを経て、あちこち消滅の危機に瀕しています。見に行くのも応援と思っています。
さて、2時間半ほどの上演の中、小さな子どもたちも神社の境内を走り回ったり、遊んだりしながら、舞楽の上演を「感じて」います。
私の通う研究所の先生は、92歳になられる日本の民俗芸能を根っこで支えてこられた方ですが、よく「子どもは舞台を見ていなくても、太鼓の音や笛の音色を全身で感じて吸い取って神楽を見てるのよ。そうして土地が何百年も伝えてきたものを、からだで受け取って自分も踊るようになるんだよ。」と話されています。シュタイナー幼児教育で大事にしている考え方と一緒です。
ふとみると、舞台の下でまだ2歳になるかならないかの小さな女の子が一生懸命踊っています。お兄さんたちの踊る「太平楽」に合わせて、手を振り上げたり、足を持ち上げたり。拍子を合わせて踊る表情は、真剣そのもの。
まるで教室で子どもたちがライゲンを踊っているときのようです。
小さな子どもはすべてを「模倣」によって学んでいきます。成長してからのように、まねしよう、と思って頭で捉えて真似をするのではなく、無意識に手足が動いてしまうような本質的な「模倣」です。この「模倣力」は生命力が健康でないと生まれてきません。
YouTubeに釘付けになっていたり、小さなころから勉強したりと頭ばかりをつかっていると、神経系統の発達も、内臓系統の発達も弱まり、生命力が十全に働きません。そうすると、感情が不安定になりぐずりやすく、癇癪を起こしがちになります。模倣の力が弱まると、からだを通して世界から受け取るものも少なくなってしまうのです。
のびのびと演者になりきって青空の下おどる小さな女の子を見ながら、土地の祭りが育んできたものの幅広さを見るように思いました。
私もまた、オオイヌノフグリやヒメオドリコソウといった春を告げる野草の広がる地面に腰を下ろして時空をこえた舞楽を満喫しながら、自分の中の生命力の回復を感じていました。
さあ、新しい春です。
今年はいくつ、こんな芸能を見に出かけていけるでしょう。
チケットのいらない、一級品の芸能の秘められた里へ。
文・虹乃美稀子
「小さな声が聞こえるところ」は新月・満月の更新です。
次回は4月24日満月の更新です。