そして9月29日は、ミカエル祭がやってきます。

ミカエル祭は、四大天使の一柱である「大天使ミカエル」の祝祭です。キリスト教の行事ですかと聞かれることがありますが、一般的なキリスト教社会で伝統的に祝われてきたことはないようで、シュタイナーの思想を反映したいわば「未来的な」祝祭です。
長く暑い夏が終わり「暑さ寒さも彼岸まで」との言葉通りやっと涼しくなりました。その秋彼岸の「中日」は、秋分の日と決まっています。
あの世(精神界)とこの世(物質界)のいわば橋渡しの時期である「彼岸」の真ん中が春分や秋分であるということは、昼と夜の長さがピッタリ同じ長さとなるこの大きな節目に、先人たちも特別の感覚を働かせていたのだということが窺い知れます。
太陽が出て沈むリズムと尺をこの惑星の大地の呼吸だと捉えると、昼よりも夜が長くなるタイミングの「秋分」は、地球の大きな呼吸の変わり目と言えるでしょう。
この大きな節目を「意識的に」大切に意図するのが、ミカエル祭です。
どんなふうに?
夏の間燃え盛っていた自然界の生命力は失われ、植物は枯れていきますが、代わりに秋は地上に多くの実りがもたらされます。
地上という物質界は、収穫、完熟、豊作、、、と豊穣に満ちます。
しかし、物質的豊かさは人を容易く欲張りにしたり、怠け者にしたりもします。人はつい「欲」に流されがちです。
私たちの本能的欲求は、体に基づく意志の力の根っこにも通じる大事なものですが、本能的欲求のままにすべて従うだけでは動物と同じです。
人間が人間たる所以は、自分のそうした本能的欲求衝動に時に抗い、自分の理想や「こうありたい」という考えに依って行動するという「自由」を持つことです。
本能に抗っても、人を愛したり、助けたり、正義を貫こうとするその勇気ある力は、大天使ミカエルが司ると言われる力です。
聖書のヨハネの黙示録(第12章)に、この大天使ミカエルと、悪とされる竜の戦いのシーンが記されています。
「大天使ミカエルが天の国で龍と戦った、ミカエルと天使たちが勝ったが、地上に突き落とされ、私たちの地と海に落ちてきた。」
私たちはこの地上で肉体を持つことで、感覚に基づく本能的な欲(快)を求める方へ強く向かってきました。 それは私たちを文明的に進化させたとも言えます。一方でそうした欲にのみ従うあり方は、暴力、偽り、憎しみといった悪の力とも結びつきやすいものです。
一年の中で一番物質的な豊さが極まるこの季節に、私たちはそうした物質的な欲にのみ流されない、精神的な思考の力や聡明さを大切にしようと意識的になると、よりよく「秋分の敷居」を越えることができます。
そう、正義と勇気の力は、精神的な思考の力や聡明さであるのです。
秋分から3ヶ月後には、一年でいちばん日の短い冬至の季節がやってきます。外光が一番弱まる季節に、私たちは夏の間に我が身に降り注いだ日の光を、内的な魂の光として輝かせることができます。
それはまさにこのミカエルの季節に、自分の中に正義と勇気の力(「考えること」を手放さない聡明な自我の力)を守り、内なる欲と闘おうとする意識的な取り組みから生まれるのです。
物質文明が極まり、生成AIが私たちの自我のありようを根底から揺さぶり始めている今、ミカエル祭が未来的な人類の祝祭として一層大事なものになってくるであろうと思わずにはいられない秋です。
次回は10月21日🌚の更新です。