「目は口ほどにものを言う」と昔から言います。
私が長年の保育人生の中で感じるのは、子育てや保育において重要とされる「言葉がけ」以上に、
子どもと交わす「まなざし」の交流はとても大切であるということです。
子どもたちはよく「先生、見てて!」と言います。
得意になってパンをこねている時、風のように走れている時、
ドキドキしながらトイレで用を足している時、子どもたちは必ず「見ててね!」と言うものです。
「見守る」という言葉があるように、私たちが意識して視線を向ける働きは、
単に「見る」こと以上の力を発揮します。
それは保護の力であり、時に癒しの力であり、信頼を与える力。
つまり愛を伝えることができる尊い行為です。
昨年から渋谷区下北沢のmahina pharmacyさんにおいてシュタイナーの12感覚についての講座を開いていますが、ちょうど今月は「視覚」についてのお話をしたところでした。
感覚とは、私たちの体と意識を通して「世界と出会う扉」です。
通常は「五感」と呼ばれる視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のみを感覚だと認知しがちですが、
実はシュタイナーは人間には12の感覚領域があると言っています。
そのどれもが人間の生活に欠かせずに働いており、この中には「思考感覚」とか「自我感覚」とか、聞き慣れない感覚もあります。
そしてこの12の感覚は低位・中位・高位の三つの領域に分けられ、互いに関わり合っています。
この中で「視覚」は中位の「魂の感覚」の領域に位置します。
「見ること」がどうして「魂(心)」の領域に位置するのでしょうか。
「見る」という行為は、実際には目が直接何かを見ているのではなく、
「魂」が目を通して周りの世界を見ている、と考えてみましょう。
私たちは通常、目を開いている時には様々な視覚情報が目に飛び込んできます。
しかし、日々見慣れた目にする風景であっても、記憶を頼りにその形状や色や材質や様子を詳細に伝えることは難しいはずです。
でも、大好きなひとや、風景であれば、たとえ少しの間でも「目に焼き付けて」ありありとその様子を思い起こすことができます。
「魂」が見ようとしなければ、視覚情報として目に入ってきても、本当の意味で「見ている」とは言えないのです。
子どもたちは、人間の視線の本質的な働きを、無意識に感じ取っているからこそ、「見て!見て!」と言うのかもしれませんね。
それはつまり、私たち大人の魂の熱、つまり愛を、求めていると言い換えられるのかもしれません。
目は世界を照らし出す、太陽の親類のような存在です。
瞳は人間の身体の中でも、宝石のようにとりわけ美しい部位ですが、その瞳孔の周りを囲む色のある部分(虹彩)は、ギリシャ時代の虹の女神にちなんで「イリス」と名付けられているそうです。
(「魂の感覚・十二感覚」アルバート・ズスマン著より)
あなたの瞳の奥を鏡でよーくのぞいてみてください。
そこには本当に、虹を見つけることができるでしょう。
「目」で会話できるようになると言うことは、それだけ信頼関係の深まった人間同士のコミュニケーションを意味しますが、私も子どもたちと「目で話す」ことができるようになることを意識しています。
これができるようになった子どもとの間には、互いに深い信頼を感じあうことができます。
それはまた、人生を歩き始めたばかりの子どもが家庭以外の場所も信頼できる自分の場所であり、そこには信頼できる人間がいるのだと言う世界への大きな信頼感を育む最初の一歩を作ることにもつながります。
私たちの瞳は、愛を伝える素晴らしい感覚器官であり、コミュニケーションの道具であるのです。
(この連載は毎月満月・新月の更新です。次回は10/6新月の更新です。)