まだ松の内の某新聞に、霊長類学者の山極寿一氏の論説が紹介されていました。山極先生は、前京都大学総長で現在は総合地球環境学研究所の所長を務めておられ、ゴリラの研究で有名なのでご存知の方も多いと思います。
私は数年前に、主宰していた福島の子どもたちの保養活動を支援してくださっている京都の市民の方々に呼ばれてお話会をしたことがありますが、その会場が山極先生のご夫人が開かれている自宅兼のギャラリーだったため、そこで自宅にいらっしゃる山極先生をお見かけしたことがあります。ゴリラの描かれたTシャツを無造作に来て、リラックスされた表情で気さくにご挨拶くださった先生は、京都大学の総長という権威ある立場におられることをこちらが忘れてしまうくらいで、そのお人柄が察せられました。
さて、その山極先生が新聞で「社会が不安だらけになっているのは”時間の使い方”に答えがある」というお話をされていました。
人類は本来「自然の時間」に過ごす中で、自由に動き、集まり、自分と違うものと対話することで違う視点を得て、自分や社会の未来を作ってきたけれど、産業革命以降、時間を管理して効率的に使う「工業的な時間」に駆り立てられるようになって、「人と付き合う」ことを忘れてしまい、孤立感を深めてしまうということでした。
人類の進化の過程の中で「時間」は本来、他者と共有するものであり、アフリカの狩猟採集民も何でも自分で生み出せるのに、互いに協力し、分担し合うことで幸福感を得ていると。
「自然な時間」とは何でしょう。
それは赤ちゃんを育てる親の時間や高齢者の時間、障害者の時間だと言います。
つまり、「生産的」ではない時間。
これは、私がこの園でずっと伝えてきたことと同じだと、深く頷きました。
子育ての時間は、生産的ではありません。社会で存分に自分の能力を発揮して仕事をしてきたり、その対価を得てきたりしたならば、子どもを産んで家庭に入ると、どんなに子育てを頑張っても「評価されない」「収入に反映されない」ということで、自己肯定感が下がったり、社会から遠ざかっているような気持ちになってしまいがちです。
しかし、実は子育ての時間ほど豊かな時間は無いのです。
社会的生産性はないけれど、子どもの成長の歩みは私たち人類の進化を再びなぞるような生命の神秘に気付かされますし、工業的な時間から解放された「自然な時間」とは、アーティスティックな時間でもあります。
効率的な時間軸から自由になり、子どもと共にいる大人自身も、その感性を開いて世界に向かい合えるかけがえのない時間を過ごすことができるのです。
子育ては、リアリティのある身体を使ったお世話の積み重ねでもあります。
「人を信頼できるようになるには、言葉ではなく身体の共鳴が必要」と山際先生もおっしゃっています。テレワークが進み、手元のスマホで情報ばかりを確認している現代社会では、情報ばかりに頼って自分の時間を生きているので、行き詰まって苦しくなるのは当たり前だと。
赤ちゃんが、十分に触れ合いを大事にお世話をされることで触覚を通して愛着関係を形成し、他者や世界への根本的な信頼感を形成していくように、大人もまた、身体を介した時間の共有をすることで情緒的な社会性を形成し、幸福感を培っていくのです。
不景気が続いていることも大きな一因でしょうが、共働きすることを積極的に後押しする風潮の中で、子どもは生後早々と保育園に入れてしまうケースが増えています。しかし、あまりに早く家庭から子育ての時間を奪ってしまうことは、子どもへの影響はもちろんのこと、実は社会全体から見た「自然な時間」をも搾取してしまっているのかもしれません。効率的で生産性の高い社会を目指すがゆえに、気づけば社会が不安だらけになっているという現実に、私たちはそろそろ気づき、低成長期だからこそ培える文化の豊かさを形成すべき時代に入っているのではないでしょうか。
生きづらさのある困難な時代と言われますが、原因を外に求めるばかりでは脱却は難しいように思います。私たち自身が自らの生活のあり方、時間の使い方をごく個人的なレベルで見直していくこともまた、皆でこの時代を乗り越えて新しい文化を形成していくために欠かせない力なのだと思うのです。
2023年、良い年にしていきましょう。
(園長 虹乃美稀子)
次回は1月22日新月の更新です。