よく「いつ幼稚園の先生になろうと思ったのですか」と聞かれるのですが、実は幼稚園の頃の夢は「看護婦さん」で、小学生になってからは「エレクトーンの先生」でした。子どもは、自分の生活範囲内の具体的に理解できる職業に憧れますね。幼稚園の先生になりたいと思ったことはおそらく子ども時代は一度もないはずです。しかし、その芽はどこにあったかとよく振り返ると、、、ありました!それは中学生時代です。
私の母は6人兄妹ですので、いとこの数は母方だけでも15人にのぼります。(父方は3人なので、合わせて18人のいとこを持ちます。)私は母方のいとこの中で最年長です。
子どもの頃は、週末になるとよく家族で仙台市南端の兼業農家である祖父母の家を訪ねました。
昔ながらの祖父母の家は敷地が広く、内孫のいとこたちは敷地の中の離れに住んでいました。
遊ぶとなると、あっちの畑で遊んだりこっちの母屋で遊んだり、次は庭の中でと遊び場所はたくさんありました。鶏や山羊もいました。庭には広い池があって、たくさんの鯉が泳いでおり、いつの時代のものか古い「聖徳太子堂」が祀られていました。
ほとんど開かずの扉状態の古い蔵があり「何度も泥棒に入られて、めぼしいものはみんな取られたのっしゃ」と話す祖母の言葉に「この扉を泥棒がなんども開けたんだ」とドキドキしながら見つめた思い出があります。
夕食どきにになると、大人と子どもたちは分けられます。
大人たちは祖父や叔父たちが中心になって座敷で宴会を始めます。
母たち女衆は台所と座敷をいったりきたりで忙しい。
そんな時、子どもたちは全員茶の間に集められてそこで食事を一緒に取るのです。
18人の孫たち全員が集結することは盆や正月以外はそうありませんでしたが、それでも常に10人ほどの子どもたちがそこで一緒に食事をします。
最年長だった私は、いくらかお姉さんらしく振る舞おうとしていたのかもしれません。
本当は一人きりで本を読んだりしているのが好きな子どもでしたが。
さて、私が中学生の頃です。
叔父の4番目の女の子が2歳くらいになっていました。
私が隣に座ってご飯を食べさせていたのですが、その時に「なんとかわいいんだろう」と心底胸がキュンとしたのです。それは愛おしさ、慈しみといった感情の芽生えだったように思います。
それまでには味わったことのない深い感情で自分でもびっくりしました。
感情というものは成長過程の中で少しずつ分化し、深まっていくものです。
快・不快といったごく原始的な感情から始まり、だんだんと喜び・悲しみ・怒り・嫉妬・憐れみ、、、などと感情を深めていきます。
子ども時代、それは地域社会や地縁血縁といったごく身近な人間関係の中で豊かに耕され育まれていくものでしょう。
幼い子どもを慈しむ感情は、その後自分の中で深い泉に沈むようにして、機が熟すまで潜んでいたようです。
それから紆余曲折の高校時代を経て、進学する時になぜか自然と保育の道を選びました。
そして今思えば、それは自分にとって心の奥で一番望んでいた道となりました。
進路を決めるとき、表層意識だけでは最善のその人間に適した道は選べないかもしれません。
私の中学生時代の夢は「ジャーナリスト」でしたから。人の道とは不思議なものです。
(この連載は、毎月新月・満月に更新されます。次回は3/7新月の更新です。)
文・虹乃 美稀子(園長兼クラス担任)
仙台市保育士として7年間勤務後、シュタイナー幼児教育者養成コースに学ぶ 06年 園の前身となるシュタイナー親子クラス開設 Facebook|東仙台シュタイナー虹のこども園 |