毎年、阿蘇の山中に住む友人が、立派な山栗を送ってくれます。
茹でて、半分に切っておやつに出すと、子どもたちは夢中でスプーンで掘って食べています。小さな栗からどうやって美味しい実を残すことなく、ほじくりだすか。
手先の器用さは、こんな日常の暮らしから培われています。
栗のおいしさに目覚めた子どもたち、お散歩先の近所の公園の近くの藪(やぶ)にある栗の木から、たくさんイガ栗が落ちているのを見つけて、夢中でとり始めました。
毎年拾っている場所ですが、いつもはだいたい虫食いなのです。
ところが今年の栗は大きさも立派で虫食いが少なく、ツヤツヤに光っています。
きっとタイミングがよかったのでしょう。
袋もなければ、ポケットもないので、集めた栗を服の前裾に入れて手で持つことを教えると、お腹に栗がわんさかたまっていくのが面白くて、ますます張り切って拾っています。
一通り拾い切って、もう無いな〜とうろうろしている子どもたち。
その頃になってから、栗拾いに気づいてやってくる子もいます。
「栗がほしい〜。どこにあるの〜?」と言われても、取り尽くした後は空のイガばかりで見つからず、、、
そんな時に、自分のお腹に抱えている大事な栗の実を「はい!」とさり気なく1個分けてあげる子どもたち、優しいなあと思います。
そして私も一緒にまた探し出すのだけれど、なかなか見つからず場所を変えては「無いな〜、無いな〜。もう随分取っちゃったからなあ。」と呟いていました。
それでもやっぱり、後から来た子も栗が欲しい。
たくさん拾った子がうらやましいのです。何とか見つけてあげたいなと思って地面に這いつくばるようにして探していると、ありました! あそこにも、ここにも。
茂みの陰や、草の陰に隠れるようにツヤツヤの栗が隠れています。
思わず「無いと思えば無いけれど、在ると探せば在るもんだ」という言葉が浮かんできました。
それはどこか、聖書にある「叩けよ、さらば開かれん」の言葉と重なるように自分の中に響いてきます。
ざっくり見渡して「無い、無い」と言っているうちは、本当に大事なものを見つけることはできないかもしれません。
幸せも、喜びも「在る」と信じてよく見てみると、思わぬ足元に潜んでいることなのかもしれないな。
隠れて光っている栗を見つけるたびにそんなことを思いながら拾っていました。
子どもたちはお腹に抱えた栗を落として、道路に散らばった栗を拾い集めながら、それも楽しの帰り道でした。
文・虹乃美稀子
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「小さな声が聞こえるところ」は新月・満月の更新です。
次回は10月17日満月🌕の更新です。
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