年末に、一枚の喪中ハガキが届きました。
青森の小学校時代の恩師の逝去を知らせる葉書でした。
澤野壬自(ていじ)先生、享年91歳。
葉書を手にした時に、「ああ、やはり」との思い。
昨年のお正月、何十年とやりとりしていた年賀状が届かなかったからです。
澤野先生に担任していただいたのは、青森市立泉川小学校5年生の時。
当時すでに50歳、今の私くらいの年齢になるわけですが、10歳の私にはすでに十分年配の先生と感じられました。
とても優しく、いつもにこにこされていて、人格の大きさを感じさせる先生でした。
4年生の11月に仙台から父親の転勤に伴い転校してきた私は、慣れない津軽弁や見知らぬ土地柄に馴染むのに、心理的に時間を要していました。
思春期の入り口であったこともあり、表面上は新しい友達もできて、問題なく学校生活を送っているようでいて、成長に伴い確立されていく内面世界は、様々な葛藤を抱えていたように覚えています。
ある日、国語の授業で私は「転校と私」という作文を書きました。
転校がわかったときのショック、仙台の友達や学校との悲しい別れ(2年後には戻ることになるのですが)、青森の風習への違和感、そこを超えての新しい出会い、、、その時の葛藤を書き尽くしたような自分にとっての「大作」でした。
その作文を、澤野先生は赤ペンで二重丸をつけて「素晴らしい作品です」とコメントしてくれました。自分の葛藤を、まっすぐ受け止めてくれる大人がいるーその喜びと安心感は、どんなに大きかったことでしょう。先生のそのコメントの筆跡は、今でも脳裏にありありと浮かびます。
そんな私に、詩を書くようにと1冊のノートをプレゼントしてくれたのが澤野先生でした。私はそれからしばらく、毎日詩を書いては先生に見せていました。
詩を書く習慣は、それから高校生くらいまで続きました。
あれから40年経ち、私は当時の先生の年齢になりました。
あの頃、授業中にしてくれた様々な楽しくて面白いエピソードの多くは忘れてしまったけれど、先生が教室にいたあの温かい時空間は、今でも心地よい感触として自分の中に残っています。
実はその素敵な澤野先生の担任は、1年と保つことがありませんでした。
その年度途中に、指導主事の先生が急逝されたことで、澤野先生が繰り上がりで主事となり、担任を離れることになったのです。その後にやってきた若い男性講師は、残念ながら子ども心にその言動は残念なことばかりだったので、余計に澤野学級での時間は短いけれども暖かな喜びの時間として、私たち児童に深い印象を残したのでした。
澤野先生とは、その後もやりとりが続きました。
保育士になった20代の頃、青森まで訪ねていったことがありますし、私が1冊目の本を出版した40代の時には、お祝いも送ってくださいました。晩年にお会いしたいとお電話した時には「私はもうすっかり歳をとってしまってね、、、」とあの優しい津軽訛りで、やんわりとご遠慮されたことを思い出します。
澤野先生が私に書くようにいってくれた詩を、今年はまた書き始めようと思います。
誰の中にも「内なるアーティスト」が存在します。
それはまだアーティストとしては世間に出ていかないけれども、歌うのが好きだったり、絵を描かずにはいられなかったり、何かを言葉で表現したかったり、下手くそでもギターやピアノを弾きたがったりしています。
「アーティスト・チャイルド」と呼ぶような、内なる子どものアーティストです。
その小さな子どもを、自分自身で育てていきたいと思っています。
澤野先生、ありがとうございます。
短いけれども、先生が与えてくれた力は、40年経っても私の中に息づいているのを感じる新年です。
私もまた、子どもたちのそんなアーティスト・チャイルドを守り育てていくような仕事をしていきたいと思います。
先生に会えて、先生が教師になってくれて、本当にありがたく思っています。
明日は、先生の一周忌ですね。
感謝をこめて、ご冥福をお祈りします。
文・虹乃美稀子
「小さな声が聞こえるところ」は新月・満月の更新です。
次回は1月29日🌚の更新です。
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