シュタイナー園では、おそらく必ずと言っていいほど「お祈りの時間」があると思います。
その多くはお帰りの時間に、ろうそくを灯して行います。
唱えるのは、シュタイナーの遺した幼児のための夕べの祈りの言葉です。
日本にもいくつかの訳がありますが、虹のこども園での言葉をご紹介します。
わたしの頭も わたしの足も
みんなかみさまの姿です。
わたしは心にも両手にも
かみさまの働きを感じます。
わたしは口を開いて話すとき
かみさまの意思に従います。
どんなものの中にも
お母さまやお父さまや
すべての愛する人の中にも、
動物や木や石の中にも
かみさまの姿が見えます。
だから怖いものは何もありません。
わたしの周りには
愛だけがあるのです。
ールドルフ・シュタイナー
このお祈りを、私たちは毎日静けさの中で唱えています。
入園したてのお祈りの経験のない子は、しばらくの間、興味深げに周りをキョロキョロしたり、足をブラブラさせたり、笑って見たりしています。
ちなみに、わたしはそうした様子をあえて注意したり集中を求めたりはしません。
大人もまた、自分自身のお祈りに集中しているからです。
しかし、子どもの前で目を閉じてはいけません。
目はしっかり開いて「今ここ」を認識したまま、自分の中に埋没しないように気をつけるのが大切です。
ひと月もすると、そうした子どもたちも自然と言葉を追いかけるようにして、口を開き始めます。
ぶらぶらしていた手と手が、次第に胸の前で合わさるようになっていきます。
「わた、、、、です、わた、、、、です、、、、、、、ます」
辿々しくもはっきりと響く語尾が教室の中に響くとき、わたしはなんとも言えない尊い存在をそこに感じることがあります。
まさに、「神の似姿」である存在を思うのです。

シュタイナー園のお祈りは、宗教に基づいたお祈りではないので、「神さま」と言ったときにそこに固有の神を指しているわけではありません。
ここで言う「神さま」とは大元の命の源への畏敬の祈り、というようなものとわたしは考えています。
人間は幼児期に宗教的な気分の中に育つことにより、本来持っている善良さや、よりよくありたいという根源的欲求を、健やかに芽生え育てていくことができます。
AIの跋扈するデジタル時代において、若年層の道徳心の急速な欠如が危ぶまれる事件が相次いでいますが、本来健康的な道徳心や倫理観というものは、学校の道徳の授業に代表されるような頭を通して理屈で伝えて育まれる質のものではありません。
学齢期に至ってからでは遅い、とも言えましょう。
そして、子どもたちは1日の流れの区切りとして、こうした静けさの中でろうそくの灯火をみんなで見つめるような「小さな特別の時間」が大好きです。
自分たちが大事にされていると言うことが、積み重ねる体験を通して伝えられるからです。
「大好きだよ」と言葉で伝えるよりもずっと、その子の根っこに響く肯定感を築いていきます。
こうした時間が日々の中にあることそのものが、「子どもたちのスピリチュアリティを大切にする」ことの大事な柱となっていきます。
このお祈りは、子どもが寝る前にお布団の上で共にするお祈りとしてもとてもふさわしいものです。

(文・虹乃美稀子)
次回は6月15日🌑の更新です。




