園には、いわゆる子どもの好きな「キャラクター」は見当たりません。
時代ごとに移り行くその時代のキャラクターはもちろんのこと、
国民的人気の丸いお顔の○ラエモンや○ンパンマンも。
私がかつて勤務していた30年前の公立保育所では、子どもたちがキャラクターのプリントされた服や持ち物を身につけてくることはあっても、園の壁面装飾に使ったり、保育士のエプロンにキャラクターをアップリケしたものをわざわざ身につけるということはほとんどありませんでした。
そうしたことをしようとすれば「なぜテレビのキャラクターをわざわざ保育環境に導入するのか?その意図はなにか?」と職員会議で話し合ったように思います。
それから時代は流れ、今は園看板や送迎バス、園庭の大型遊具に至るまでそうしたキャラクターが随所に見られる園が増えました。
すべて商標登録されていますので、そうしたものを購入すれば、キャラクター分上乗せされたお高い価格となります。
それでも導入されるのは「子どもたちが喜ぶから」でしょう。
今は少子化で、どの園も子どもの獲得に必死です。
人気幼稚園すら「青田刈り」をするように2歳児保育を始めています。
少し前に各自治体から、それまでの設立基準のハードルを大きく下げて民間園の設立を煽られた事業者たちは、あっというまに生き残りのための激しい競争を迫られています。
子どもたちに人気のキャラクターが園の外側からでも見えれば「あそこの園に行きたい」となります。
なぜ、子どもたちはそうしたキャラクターが好きになるのでしょう。
それは、キャラクターは子どもが「欲しがるように」よく計算されて作られているからです。
しかしその目的は、子どものためではありません。
大人が儲かるため、ビジネスのためです。
私はやなせたかしさんも藤子不二雄さんも好きですが、彼らが作家として生み出したそれらのキャラクターの原型は、およそ今世間に流通しているキャラクター化されたそれとは大分違います。原作にこそ、その存在の意味があります。
子どもは、全身が感覚器官として世界に開いていますので、外から強引に入ってきた感覚の刺激を、思考で追い出すことはできません。
つまりすぐに「ハマって」しまう性質があるのです。
それは、子どものの要らぬこだわりを増やし、子どもを「不自由」にさせます。
〇〇のパジャマじゃないと着ない、〇〇のついている歯ブラシじゃないと磨きたくない、あれを買ってくれないとイヤ!。
そして子どもと世界の間にいらぬ邪魔が入るのです。
「お水ちょうだい!」といって渡されるコップに描いていあるキャラクター。
「先生!」と抱きついた保育士のエプロンに、本人の顔より大きく描かれている○ンパンマン。
どれもいらない「感覚的寄り道」です。
私がかつて公立保育士からシュタイナー園の実習生として初めてシュタイナー教育の現場に入った時に驚いたことのひとつは、子どもたちの描く絵が全く違う、ということです。
それまでの子どもたちは、テレビで子どもたちがよく見ているキャラクターやプリンセスの絵をそろって描いていました。年長児にもなると、同じ絵ばかりをそろって描き込み、その絵がいちばん「本物」に近く描ける子が「絵の上手な子」と子どもたちも認識していました。
しかし、テレビやキャラクターがまだ自身の中に入り込んでいない子どもたちの描く絵は、ひとりひとりが全く違っていて、本当に自由でした。
子どもたち自身の中にこんな世界が広がっているのかと感動しましたし、何より子どもたちはみんな一人残らず絵を描くのが好きでした。
歌うをうたうことが、表現という人間らしさのかけがえのない素地であると同様に、
絵を描くこともまた、本来誰もが上手下手を超えて楽しむべき表現活動です。
それを自分のものにしていくのが、幼児期なのです。
「表現」をすることは、人生を通して、人間を自由にしていきます。
本来持っているその人間ならではの感性、芸術性を大切にしていきたい。
心からそう思います。
一律の価値観を与えがちな「キャラクター」を排除することはなくても、私たちはもう少し用心深くなってもよいかもしれません。
本当に佳きものを見極める審美眼の土台は、幼児期に育つのです。
文・虹乃美稀子
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