5月から11月まで月1回、幼稚園部は「森のこども園」と称して森で過ごす日があります。
先日も初夏の爽やかな風と、瑞々しい緑に囲まれて、まるで天国のようなうっとりする時間を過ごしてきました。森で過ごすのは、子どもも大人も大好きです。
近頃の東北では人の住むエリアにも熊やイノシシが現れて深刻な被害をもたらすことがありますが、最近ではよく行くこの森でも遊歩道の途中に柵の扉が設けられ、こんな警告が書かれるようになりました。
子どもたちは「どうして扉があるの?」「入っちゃいけないの?」「イノシシが出るの?」とちょっと心配顔。
なので「ここから先は、動物さんたちも住んでる森にお邪魔するっていうことだから、挨拶してねってことだよ」と話し、「お邪魔しまーす!」と挨拶して扉を開けました。
里山の果樹などを手入れしないと、動物たちは人の住むエリアとの境界がわからなくなり、どんどん人里に降りてくると言われますが、子どもたちも同じ。育ちの中で「境界」を知ることはとても大事です。
今は「ボーダーレス」が重視される時代。
様々な境界という「壁」を崩して、「みんな一緒」がいいとされますが、何もかも一緒であることが本当に良いことなのでしょうか。
例えば、子どもと大人。
「人間」としては当然平等であり、尊重される権利も尊厳も同じですが、存在としては全く違います。
子どもはまだ心身ともに成長発達の中にあり、まだ大人から守られるべき存在であり、配慮を要することの多い存在です。
暮らしのリズムも、出かけていく場所も、食べるものも見るものも、なんでも大人と同じでいいわけはなく、やはり子どもと大人の間にも「境界」は必要です。
今は、よそのお家の冷蔵庫も平気で開けてしまう子が増えているそうです。これも「境界」の感覚の喪失から来ています。
私の園は2階が自宅になっているので、階段を昇れば勝手に上がっていくこともできるのですが、そこに無許可で上がっていく子どもは一人もいません。
そこには見えない「境界」があるからです。
どうやって「境界」を育てるのでしょう?
「二階は先生のお家だから勝手に上がらない」ということを、暮らしの中で言葉でも態度でも伝えていくことです。
例えば、何かの用件で二階に子どもたちを案内するときは、必ず階段のところで「お邪魔しますって言ってね」と伝えます。
昭和の時代はお友達の家に遊びに行くとき、必ず玄関で「お邪魔しまーす!」と言うように躾けられていた人が多かったのではないでしょうか。あれ、大事ですね。
子どもにとっても「ここはよそのお家だ」と意識的になることができます。
よそのお家には、よそのお家のルールがあり、それに従う客人としての心構えを持つことは、子どものうちにしか育てられません。
「よそはよそ、うちはうち」と言う感覚はとても大事です。
なぜならそうした「境界」の感覚は、大人になった時に確固としたアイデンティティを持つ土台の感覚になるからです。
他者に惑わされない、確固とした「自分」を保持するには、アイデンティティという自我の境界の感覚が必要です。
そしてその感覚は、身体に基づいているので7歳までの乳幼児期に、暮らしの中で身体経験を通して十分に育てていく必要があるのです。
「もう8時過ぎたら大人の時間だから子どもは寝るよ」と言って、リビングから寝室へ誘う。その後リビングに戻ってきても「もう大人の時間だよ」と言ってダラダラと過ごさせない。
レストランに行ってテーブルの上に置いてあるものを色々といじろうとした時に「これはおもちゃじゃないから遊ばないよ」と触らせない。
親のスマホや財布を勝手にいじろうとしたら「これは子どもの触っていいものではないよ」とすぐに取り上げる。
こうしたことはすべて、子どもの健やかな「境界」の感覚を育てるのに大切な、大人が配慮して「あげられる」ことです。
子どもはこうして大人に守られて育つことで、本当の意味でのアイデンティティを確立させていくための大事な子ども時代を過ごすことができるのです。
文・虹乃美稀子
「小さな声が聞こえるところ」は新月・満月の更新です。
次回は6月25日新月🌚の更新です。
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